40代になってしまったヤリチンの闇と余生

ヤリチンといえば、女性を数多く経験し、酸いも甘いも知っている像が思い浮かぶ。ナンパ師がナンパ講座を開けば非モテ男性が集まり、恋愛を『誰にでもできる科学的手法である』風に見せれば、恋愛講座の受講者はあとを絶たない。

であれば、そのめくるめく経験の末に突入する40代は、ハーレム王国かはたまた最愛の最上スペック女性なのか、と思うところだが、ヤリチンの進路は基本的に2つしかなく、しかも薄暗い。

今回はヤリチンの40代で直面する進路と、背景にひそむ理由について書いていきたい。

ヤリチンの進路1 JDに貢いで体を求めないおっさん

  • 昔のようにはいかないでしょ

ヤリチンにとってJDとは「違法でない最も若いカラダ」である。20代の頃からJDを求め、しかも、テクニック巧みに女性を手に入れてきた人間にとってはJDくらいの年齢層が自分のスタンダードになっていく。

しかし、ヤリチンが忘れているのは「自分はどんどん加齢して冴えないおっさんになっていく」ということだ。その事実はヤリチンに40歳ごろ、急に訪れる。

・20代ヤリチン  話が面白ければJDにモテる

・30代ヤリチン  話が面白くてご飯を奢ればJDにモテる

・40代ヤリチン  JDにキモがられる

こんな具合で。

JDにとって20代は「まだまだ同年代」であり、30代は「ギリギリお兄さん」である。しかし、40代ヤリチンは父親の年齢に近い人間として「お兄さん」の枠を外れてしまう。

というわけで、40歳になったヤリチンは突然「おっさん」と言われるのだ。それでも、彼らは同年代の女性に目を向けることはできない。

40代女性はメンタルが20代で止まった彼らの目には「おばさん」にしか見えないのだ。「(自分の意識では)俺はまだ20代だというのに!」と思ってしまう。

従って、40代のヤリチンはJDに手を出せなくなってもなお、JDにご飯をおごって、一緒に食べて時間を過ごす。JDから見ると「がっついても来なくて金づるになる素敵な人」になるというわけだ。こうしてグルメなプロJDは生まれていく。

ヤリチンの進路2 メンヘラに引っかかる

  • 今までとは勝手が違ったね

本来ヤリチンは恋愛のプロではない。『女性をモノとしてハントする』ことには長けていても「身持ちが堅く、1人のパートナーを大事にする女性を選ぶ目」はない。ヤリチンの性質上、身持ちが堅い女性は排除すべき対象だったからだ。

しかし、自分が「選ぶ立場」だった男性は思う。

『あー、もう充分遊んだけど、結婚するなら、堅実に家のことはこなしてくれて、恥ずかしくない学歴の女いないかなぁ。結婚しても浮気するだろうからバレたら困るし、ちょっとバカな女で気づかないくらいがいいなぁ』(詳しくはぱぷりこさんの:「ちゃんとした女が好き」というヤリチンが選ぶ女が、まったくちゃんとしていない件

そして、そんな女性を見つけ「やはり自分は選べる立場だったんだ」と満足してステディを手に入れる。しかし、40代で浮気性の男を許せる女は大抵メンヘラである。

メンヘラは父性に飢えているタイプも多い。お父さんに愛されたかった代償行為として、同じくらいの年齢の男性に甘えたくなるのだ。

しかし、そんな『お父さん』が他の女といちゃいちゃ浮気するのを許せるほど、本来は心が広くない。溜まりに溜まった父性への渇望(かつ浮気への怒り)は、オーバードーズや自殺未遂などヤリチンがとうてい手に負えない結末を招く。

ヤリチンは思う。「とんでもないメンヘラにひっかかっちゃったよ」と。

そして、無反省のまま次の「身持ちが堅い1人のパートナーを大事にする女性」を探す旅へ出てしまう。

本質的にヤリチンとメンヘラは似ているのだ、と二村ヒトシが『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』で書いている。

ヤリチンもメンヘラも自分の心に抑えきれない「心の穴」があって、寂しさの風が吹き荒れている。その抑えきれない風を沈めるために、常に相手を欲し、異性で埋めていこうとする。

しかし、異性は「穴埋め」でしかないので自分にとって大切な人にはできない。心の穴はまた風で荒れる。異性を手に入れる。その繰り返しだ。

どうか彼らがさみしさから抜け出せますように

  • はてさて、これからどうなるかな?

ヤリチンが女性を「対象物」としてではなく、「1人のパートナーとして、自分を大事にしてほしい」なら、それまでヤリチンが避けてきた「自分を傷つけうる強さ」や「自分を振るかもしれない怖さ」と向き合わなくてはいけない。

しかし、30歳頃に男性から相手にされなくなりはじめるビッチと違い、ヤリチンは自分のさみしさに気づく機会が40代になるまで与えられない。

30代であればやり直せたことも、人生半ばとなれば難しくなる。だから、ヤリチンの余生はさみしいものとなりやすいのである。

私にはヤリチンの友達がそれなりにいる。そして、彼らは美しくJDをまえに咲き誇っている。彼らは彼らでさみしさを埋めるために、生きるためにヤリチンをしているのだ。

だから私は彼らを責めたくはないし、どこかで奇跡が起きて、彼らがさみしさのトロッコから抜けられないかな、と切に願っている。

 
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